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Features

ISSUE #2

Post date: Nov 21,2020  Category: Art

Yasashiidake
Ittetsu Matsuoka

Interview

写真家と美学者が探る「やさしいだけ」の世界

松岡一哲 × 伊藤亜紗 対談

固定観念を解きほぐすように人や風景の未知なる様相を写しだす写真家の松岡一哲。障がいを通して人間の身体のあり方について研究、執筆する美学者の伊藤亜紗。世界を独自の視点で捉え、アクチュアルにアウトプットする二人が、2020年10月、松岡の個展「やさしいだけ」を開催のタカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルムで語り合った。

 

    被写体は違っても捉えたものは同じ

松岡 実は、出口の写真をどっちにするかずっと迷ってて。

伊藤 写ってるものはかなり違いますよね。こっちは……。

松岡 木ですね。信号の光で建物の壁が赤くなってると思うんですよね。緑色もかぶってるんで、他の信号の色がきてるのかなぁ。この色の混ざってるのと、動いてるのが好きなんですよね。もう一つも同じで。

Ittetsu Matsuoka, “Marnie”, 2019, C-print

Ittetsu Matsuoka, “Marnie”, 2019, C-print

Ittetsu Matsuoka, “Yasashiidake 3”, 2017, C-print

Ittetsu Matsuoka, “Yasashiidake 3”, 2017, C-print

伊藤 これは女性ですよね。

松岡 ですね。やっぱりちょっと右寄りの展開があって、後ろに赤い光があって、時間が写ってるというか。そこに漂う空気を捉えるのが、自分の中でうまくいったんですよね。

伊藤 すごく面白いですね。写真って一回性のものっていうイメージが強いし、それを置き換え可能、同じ効果をもってるって思うことが。

松岡 個展始まっても毎晩悩んでます。それだけ自分の中では近いんだろうなぁ。

伊藤 時間が写ってるっていうのは……。

松岡 単純に動いてる、ブレてるんで、ここからここまでの何秒かがそのまま写ってるというか。物とか人ってどうしてもピントが合って止まってるのが「それ」っていう認識が強いけど、自分にとってはこれがこの時の印象で。

伊藤 実際こう目に見えてたっていうことではないですもんね。

松岡 そうですね。でも撮ってるときにこういうふうになるかなっていうのはなんとなく思って撮ってますね。

Ittetsu Matsuoka, “Sophie”, 2017, C-print, mounted on aluminum

Ittetsu Matsuoka, “Sophie”, 2017, C-print, mounted on aluminum

 

    実態が消える直前に写るもの

松岡 これは少女の顔を撮ってるけど、目のところに出たこの光が面白い。普段目に見えるものではないですね。実態がなくなっちゃうちょっと前ぐらいが、一番その本質というか魅力がよく表れるような気がする。

伊藤 そのへんすごく面白いですね。この子にとって、自分の実態じゃなくこの光がいいって言われることってけっこう残酷だと思うんだけど、そこが写真の、現実とは別の扉を開いてしまう怖さっていうか面白さ。

松岡 ですね。

伊藤 うちの夫が人を褒めるのが下手で、いつも私のことを「◯◯にそっくり」って言うんですよ(笑)。それは女優さんとかなんだけど、言われれば言われるほどムッとくる。私じゃなくてその女優が好きなんだ、みたいな。

松岡 なるほど。

伊藤 その重ねられたときの、自分が逆に後ろ側にいってしまうかんじ。でも人が何かに対していいと思うときってけっこうそういうことが起こってると思って。その人のなかで膨らんでるものは実態のほうじゃないかもしれない。

松岡 うんうん、たしかに。相手も自分と近しい感覚であったり、本当の意味でエクスパンドするみたいなことを共有できたりするんだったら、すっごい面白いものを撮れるかもしれないし、その姿も美しいんだよって言えると思うけど、それを押し付けていくと違ってくるというか。写真だと、やっぱり最終的に相手がいいねって言ってくれるっていうところもけっこう大きなポイントだったりもして。

 

    「力」に対する「やさしいだけ」

松岡 自分は話すのが下手だから、話してると伝えたいことと離れていくような気がするんですよね。写真なら、まぁずっとやってきたから、伝えたいことをそのまま画にすることが少なからずできてると思うんですけど。言葉だと押し付けたり厚かましくなったりすることがあって、そうすると自分が一番否定したい「力」みたいな部分に接近していってるような気がして。自分では「もっと共有して、もっと自由になろうよ」と言ってたつもりが、意外と相手にとっては残酷だったり暴力的だったりするかもしれない。写真の歴史ってそういうところがあると思ってて。「やさしいだけ」っていうのはそうあろうという自分の気持ちなのかもしれないですね。

伊藤 そのタイトルもすごく面白いですね。「やさしいだけ」っていうのは、ポジティブにもとれるけど、大事なときに大事なことを言えないとか、ネガティブなときにも使いますよね。そのへんの、迷いというか引っ張られてるかんじが面白いなって。

松岡 ほとんどの人って、何か迷ってたり、わけ分かんない状況のなかでなんとか生きてると思うんですけど、そういうことをそのまま表現したいだけというか。そこに「こうあるべき」って一つの答えを明示するのは危険だなぁと思うんですよね。元々は、2014年に学芸大学(東京)の流浪堂という古本屋の一角で展示させてもらったときのタイトルなんですけどね。そこにあったある写真家の本に、「写真はやさしいだけではダメである」みたいなことが書いてあって、なんか引っかかって。

伊藤 へぇー。

松岡 でもやっぱりその人が言ってることもそうだなとも思うし。でも「やさしいだけ」であることの難しさもあるし。その後もずっと悩み続けてた言葉で、今でも強度があると思って今回もタイトルにしましたね。

伊藤 なるほど。私も特にしゃべることに関して自分をコントロールできないんだけど、それ自体がエンジンというか、コントロールできないことに突き動かされる面白さみたいなものもあるから、そういう意味ではそこを否定されないこの場所はすごく居心地がいいなって思います。

 

    外見から離れた人間の魅力

Ittetsu Matsuoka,“Only child”, 2012, C-print

Ittetsu Matsuoka,“Only child”, 2012, C-print

伊藤 さっきの実態が消えるっていう話をもう一回考えたいんですけど。人を撮ると、人と背景があって、それらが一つの平面の上にのってる色彩として等価なものになって、それによって引き出される何かがあるわけですよね。松岡さんが撮ってるそれは「一瞬の表情」みたいなレベルじゃないというか。画面の構成要素として人間がもってる可能性、潜在的な美しさってどういうものなのかなって。夕日の作品はそれがすごく印象的ですよね。

松岡 人間の意識みたいな部分で可能性をすごく狭めてるなぁとは思います。人って、人のいわゆる外見の魅力みたいなところに注視しがちなんだけど、そこから離れると、人間の本当の魅力というか、可能性は無限大だと思うんですよね。例えば、日本のお祭りに、頭巾を被って顔を見せないようにして一晩中踊るものがあって、顔が見えなくなると、手先とか全身の動きとかその人のもってるグルーヴみたいなものがバーッと見えるようになる。目がパッチリしてる、顔が小さいみたいな植え付けられたものじゃない、人間の根源的な魅力みたいなものが。その延長線上で、そういう意識をまだ植え付けられてない子どもの動きとか視線の揺らぎにもすごく美しさを感じるんですよね。

伊藤 それは強いですね。

松岡 その人独自の動き、その人がその場所にいること、さらにはその人に会えたことが美しいってことにもなってくる……。そうやって美しさの概念を少しでも広げてくというか。撮り続ければ、永遠に良い瞬間は更新されるというか。

Ittetsu Matsuoka, “Only Child 2”, 2016, C-print

Ittetsu Matsuoka, “Only Child 2”, 2016, C-print

 

    理由が言えないことが一番たしか

伊藤 たしかに、顔を避けてるかんじがありますよね。体もポーズじゃなくて、途中の動きみたいな。

松岡 途中の動きも好きですね。何かの仕草の間みたいなときが一番興奮したりするし。その人特有の動きってたしかにあるし。そういう目で見だすと、例えば、障がいがあると認識されてる人の動きも、自分より全然美しいじゃんっていうか、圧倒的に才能を感じてしまう。

伊藤 障がいによる動きって途中が面白いんですよね。コップを手に取るにしても、健常者の取り方はだいたい同じですけど。

松岡 そう取るの、みたいなね。

伊藤 あと吃音の人って音と音の間で迷うんですね。例えば「つくえ」って言えなくて「つつつつ」ってなっちゃうのは、「つ」から「く」にいくときにめっちゃ迷って「こっちからいくか」みたいになっていて。そのモーフィング(複数の画像の中間の画像を生成して連続的に変化させる映像表現)に対してすごい可能性を開拓してる。

松岡 それも僕らの言葉だと「迷う」だけど、それだけじゃないっていうか。

伊藤 身体のことを研究してて、結局理由が言えないことが一番たしかだと思うんです。例えば政治的なチョイスって、「こういう理由で私はこれです」って言うんだけど、理由が言えるものって反論可能なわけですよね。でもその人の手の動きや喋り方ってほとんど理由がなくて、長年の蓄積でそうなったとしか言いようがない。あと物の配置にしても、例えばジャコメッティはすごいこだわりがあって、コーヒーカップと灰皿の配置が気になるみたいな。そういう部分って理由がないからこそ追及してしまう。でもそこにはたしかにその人の身体のローカルルールみたいなものがあって。松岡さんの写真に、赤が入ってたり、線が区切ってたり……なんとなく似たところがあるっていうのも、理由がなくても、たしかなものですよね。

松岡 いわゆる美意識みたいなものなのかもしれないけど、それって争うものじゃないってところがいいですね。

伊藤 そこがすごく大事で。力とは関係ない、否定も肯定もないものですよね。

松岡 それに後から気づくっていうのも面白い。

伊藤 私も文章を書くと、段落のサイズが全部同じなんですよ(笑)。愕然としますね。論理的なことじゃなくて、「これでひと呼吸」みたいなかんじでやっていて。言いたいことが言い切れてるかって実は中身じゃなくて、言葉の量、息の量だったみたいな。

松岡 ほんとそうなりますよね。この6個並べたときに、愕然としたもん。全部一緒じゃんって(笑)。線のなかに丸っこいものがある。

 

    写真と絵画、言葉と身体

伊藤 そういうのって絵画みたいって言えるんですかね。

松岡 うーん、絵画はもっとそれが強いような気がしていて。絵が好きなんで、影響を受けてるのかもしれないですけど。

伊藤 好きな作家とかいるんですか?

松岡 母親が好きだったから、ドガとかクレーとか好きでした。

伊藤 ドガもけっこう途中の動きの人ですよね。

松岡 そうですね。写真をもとに描いたのかなと思うぐらいに写真っぽくて。当時の普通の人だったら見られたくなさそうな部分をサラっと描くし。

伊藤 うん、写真っぽい。

松岡 いったんそういうのは忘れて、音楽やら映画やら夢中になったりしてたけど、結局その影響がでかいなっていうのも、こう並んでみると思います。絵はさらに自由ですからね。被写体がいなくても、どんどん可能性を突き詰めていける。写真はそこに被写体、相手がいて、それが面白さなんだけど。

伊藤 けっこう話すんですか、被写体とは。

松岡 あまり話さないですね。前よりは話すようになったけど。伊藤さんの『手の倫理』で「信頼」と「安心」の違いが書かれてて、たしかに信頼されたときにいいものが生まれるんだろうなと思います。でもこの言葉の違いはかなり物事を考えて頭の中で言語化してないとなかなか出てこないと思うので、すごいなぁと。

伊藤 でも言葉は道具であって目的じゃないですからね。哲学とかやってる人は言葉をしっかり使うけど、私の場合は言葉を置くことでその場の状況とか身体の状態とかいろんなものが変化する効果が面白いと思っていて。現実はもっと繊細で複雑だし、身体だって人間が意識できてる部分なんてほんとに少しで、勝手にいろんなことやってくれてるわけだから、言葉は全然追いつかないと思うんですよね。それこそ人がローカルルールでやってることって、言葉の制御の外で起こってることで。イメージとしては池にポンって石を投げて反応を見るみたいな感覚ですね。もしかしたら写真を撮ることにちょっと近いのかもしれない。

松岡 あぁ、そうかもしれないですねぇ。

Ittetsu Matsuoka,“Yasashiidake”, Oct 3 - Oct 31, 2020, installation view at Taka Ishii Gallery Photography / Film, Photo: Kenji Takahashi

Ittetsu Matsuoka,“Yasashiidake”, Oct 3 - Oct 31, 2020, installation view at Taka Ishii Gallery Photography / Film, Photo: Kenji Takahashi

 

    逆向きのものの「間」

伊藤 松岡さんは多分時間を引き延ばすかんじのコミュニケーションをされると思うんですよね。話し方も粘度が高いかんじだし。そうやって関係を作られる方なのかなと思う。でも一方で写真っていう、瞬間を切り落とすみたいなこともやられているのは面白いなと思っていて。

松岡 そう言われるとたしかに、写真に向いてないタイプなんじゃ……ずっと迷ってるっていうのも……。

伊藤 向いてないとは言ってないですよ(笑)。私のイメージでは写真を撮る方って瞬間性が強いイメージがあって。例えば面白いTシャツを着てるとか(笑)。でも松岡さんはそうじゃない。

松岡 今言われて分かりました。時間を入れたいとか、写真の醍醐味と真逆のこと言ってるとこあるし。

伊藤 だからこそうまく迷うための場所を作れるんでしょうね。

松岡 写真を信じ切ってないっていうところがあるのかもしれないですね。写真の歴史とかやってきたこと自体に疑問をもってしまう。まだ先があるんじゃないかとか思うのって、写真家としてはある意味ちょっと致命的な感覚でもあるのかも。でもだからこそっていうふうに思うしかないですよね。

伊藤 粘り気はすごい大事だと思いますよ。自分が言葉を使うときにも言葉と身体は逆の方向を向いてるなって思うので、その間に粘り気が生まれる。言葉ではすべて言い切れないし、身体は言葉によってこうしなきゃって固まるし。そういう相性が逆向きのものの「間」がやっぱり面白いんだろうなと思います。

松岡 そうですね。やっぱり「間」は面白いと思う。どっちかに立ったらもう終わりですもんね。そのもう可能性ないのかなっていう狭いところにまた別の何かを見つけていくというか。

伊藤 案外、世の中でまだ開拓されていない領域って多いですよね。『手の倫理』で触覚のことを考えたときに、物体を触る、自分の身体を触るってことは多くの人が研究してるけど、別の人の身体に触るってことはほとんど誰も研究してないことに気づいて。それは学問的に言うと認識論と倫理学の間なんです。だから誰も立ち入ってなくて。みんな質感の話とかになっちゃうんですよね。でも人を触るときって質感だけ触ってるわけではない。さっきの、顔の形じゃなくて人間の本質みたいなものっていうのと同じだと思うんですけど。

 

    信頼し合う「新たな依存」

松岡 そういうのを突き詰めて、新しい感覚が見つかっていけば、新たなコミュニケーションが生まれていくし、それが良いものになればいいですよね。みんな生き生きと生きれるみたいな。そういう新しい感覚がどうすれば社会に帰結していくのか……。

伊藤 難しいですね……。でもひとつは、他人は自分の思い通りにはならないと思って、その人を信頼することですかね。例えばお年寄りの介護施設では管理する側の時間軸とか価値観みたいなものを押し付けることがあるけど、お年寄りは全然違う時間軸や価値観で生きてるので、結局言うことを聞いてもらえなくてお互い辛い。他人は管理できない、みたいなことがもうちょっと普通になればいいなと。それが信頼するっていうことだし、依存するっていうこと。人に依存するって、人を信じないとその人に身を預けられないわけだから、実はすごい能動的で、管理されることとは全然違う。

松岡 信頼し合う「新たな依存」みたいなことですよね。

伊藤 そうですねぇ。

松岡 伊藤さんは「利他」について話されてましたけど、被写体を撮る行動に置き換えると、コントロールしないほうが、相手が自然と輝きだすというか、うまくいきますね。自分の場合は、何か指示してもあまりよくならない。あとは自分のなかで、「見えるは見えないである」とか、正反対の可能性が確実にあるってことを自分に言い聞かせるくらい。実家が映画館だったんですけど、映画って、一面的なものの見方をしてはいけない、みたいなことを言うものが多いから、そういうのが刷り込まれてるのかもしれないですね。若いときは、反骨心ばっかり強くなった時期もあったし。

伊藤 それはすごい感じますね。ただただまあるい人ではないというか。自分の中で毒というか、強いものを抱えてる感覚があるんだろうなって。

松岡 なんとなく嬉しいですね。「やさしいだけ」なんてタイトルで、きれいなもののように捉える人もいると思うけど。

伊藤 迷いがないものは怖いですよね。やっぱりよく分からないものが常に自分の中にもあるし。

松岡 そうですよね。「迷ってます」「分かんないんです」っていうことがだんだん言いづらくなってるから、そこを頑なに守ってるのかもしれない。

伊藤 最初のお話に返っちゃいますけど、二つの写真の間で迷うときに、新しい基準を見つけてるわけじゃないですか。迷うといっても、一般的な選択肢のなかで優柔不断に迷ってるわけではなくて、発見してる。多分変な迷い方をされてるんだと思う(笑)。

松岡 そうかぁ。あの二つに漂ってる空気と感覚が自分としては救いというか、同じように生き物がいて動いてて、その漂うスピードにちょっと切なさもあって。それがすごく美しく見えたんですよね。木のほうは自分としてはちょっと新たな方向性というか、色と形だけでなにかを表現したいという思いが強くなってきて。捉えたいものとか気持ちとかは変わんないんですけどね。ほんと、美しい、美しいと思って撮ってるだけだから。

Ittetsu Matsuoka, “Yasashiidake”, 2018, C-print

Ittetsu Matsuoka, “Yasashiidake”, 2018, C-print

About

松岡一哲は、妻・マリイを被写体とした、あるいは彼女の存在が感じられる景色、部屋や街といった日常的な風景を収めた私写真の系図に属する写真作品を発表してきました。我々自身のうちに蔓延る包括的な概念や言葉に依る解釈は、人間が作り出した所与の定義の上に成るものに過ぎないとし、写真という非言語メディアを介して世界の再解釈をするような試みを続けています。
パーソナルな日常シーンを均質に写し取る写真家の等価な眼差しにより得られたイメージは、その被写体や街中の様相から、見る者に身近な感情を想起させると同時に、そこにたち現れるものの存在全てを肯定するかのような不思議な感覚をももたらし、静かにも強い作品世界へと誘います。松岡は、色彩によるイメージの平面化に関心を向けており、長年愛用しているオリンパス μ(ミュー)で撮影した作品群は、統一された淡い色のトーンを纏い、アナログならではのブレ・ボケや、特有の柔らかさなどを取り入れることで独特の浮遊感を生み出しています。「希望というものを、そのまま写真に写す」という作家の言葉通り、松岡は、強固に形成された世界をほぐすように揺らぎ続ける風景を丁寧に写真に収めています。

Information


松岡一哲「やさしいだけ」


[発行] THERME BOOKS(2020年)
[仕様] 40頁、図版21点、ハード・カバー
[判型] H30.5 x W23 cm, 0.8 kg
[価格] ¥6,000–(税抜)

以下リンクからも内容をご確認いただけます。
https://therme.thebase.in/items/34513644

Photo: Kenji Takahashi

Photo: Kenji Takahashi

Biography


松岡一哲
1978年生まれ。岐阜県出身。


日本大学芸術学部写真学科卒業後、スタジオフォボスに勤務し、独立。フリーランスの写真家として活動するかたわら、2008年6月よりテルメギャラリーを立ち上げ、運営。主にファッション、広告などコマーシャルフィルムを中心に活躍する一方、日常の身辺を写真に収めながらも、等価な眼差しで世界を捉え撮影を続ける。主な個展に「やさしいだけ」タカ・イシイギャラリー フォトグラフィー/フィルム(東京、2020年)、「マリイ」Bookmarc(東京、2018年)、「マリイ」森岡書店(東京、2018年)、「Purple Matter」ダイトカイ(東京、2014年)、「やさしいだけ」流浪堂(東京、2014年)、「東京 μ粒子」テルメギャラリー(東京、2011年)など。現在は東京を拠点に活動。2020年春、『AERA』の「21世紀をつくるニッポン人名鑑」で伊藤亜紗を撮影。


伊藤亜紗
1979年生まれ。東京都出身。


2010年に東京大学大学院人文社会系研究科基礎文化研究美学芸術学専門分野を単位取得のうえ、退学。同年、同大学にて博士号を取得(文学)。学術振興会特別研究員を経て、2013年に東京工業大学リベラルアーツセンター准教授に着任。2020年に「未来の人類研究センター」を創設、センター長を務める。主な著書に『手の倫理』(講談社、2020年)、『記憶する体』(春秋社、2019年)、『どもる体』(医学書院、2018年)、『目の見えない人は世界をどう見ているのか』(光文社、2015年)、『ヴァレリーの芸術哲学、あるいは身体の解剖』(水声社、2013年)など。


作品のビューイングをアポイントメント制にて承ります。
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